▶ハンセン病家族訴訟とは
国が、「らい予防法」を制定して廃止せず、長年にわたり行ってきたハンセン病患者への「絶対隔離政策」の誤りは、裁判などで明らかにされてきました。しかし、患者の家族たちが受けてきた被害は、いまだに公的に認められないままです。
国の絶対隔離政策により作出され助長された、ハンセン病に対する差別偏見は、患者本人だけでなく、その家族たちをも、渦中に陥れました。家族たちは差別偏見にさらされ、偏見差別をおそれて秘密を抱えて生きることを強いられてきました。家族たちみんなが、その人生の有り様を変えられてしまう被害を受けました。
裁判は、このような家族たちが受けた被害を明らかにし、国に対して、謝罪広告による謝罪と損害賠償を求めています。現在、第1陣59名、第2陣509名の原告が闘っています。
この裁判では、「無らい県運動」などを通じ、加害の一端を担わされた社会の責任も問われています。社会の差別偏見は、私たち一人一人の行動でなくしていく必要があります。勇気をもって声をあげた原告たちへの応援を、お願いいたします。
▶家族にも及ぶ差別偏見
無らい県運動
1920年代末以降、絶対隔離政策を推進するために「無らい県」のスローガンのもと、官民が一体となって、ハンセン病患者を摘発し、ハンセン病療養所に送り込みました。戦後も、ハンセン病治療薬プロミンが普及し、基本的人権の尊重を謳う日本国憲法が制定されながら、第2次「無らい県運動」として展開されました。国立療養所は増床され、強制収容は強化されました。患者収容にあたり患者の住居を大消毒するなど、国民の恐怖感をあおりました。強烈な伝染病だという誤った認識が社会に広まり、患者もその家族も、強い差別偏見の目にさらされました。こうした戦後の「無らい県運動」の渦中で、山梨県でのハンセン病患者一家心中事件などの悲劇的な事件も発生しました。
龍田寮児童入学拒否事件
熊本の菊池恵楓園の附属保育所「龍田寮」は、親の強制収容により養育者不在となる子どもを収容する施設でした。1942年の開所以来、分校はありましたが、十分な教育とは到底いえませんでした。戦後これが問題となり、1954年4月から、地元の黒髪小学校へ一年生の入学が認められることになりました。しかし、PTAから入学反対運動が起き、一部住民の同盟休校にまで発展したという事件がおこります。親がハンセン病患者というだけで、子どもたちも、差別の対象とされました。
この事件は、国による強制隔離政策の中で、その家族をも社会から排斥するという、社会の差別意識が醸成されていたことを示しています。
▶原告の声
保健所の人がドドドドッと来て、〔ハンセン病の〕父親を連れて〔行った。〕そのあとは消毒。部屋の中、真っ白になるほど消毒されました。父親の着ているものとか寝てる布団とか、みんな山のほうへ持っていって燃しちゃった。(略)それまでは、まわりの人はあんまり偏見の目では見てなかったんですよ。けっこう近所付き合いもあったし、友達とも遊べたし。「遊ぶな」とも誰も言わなかったですよ。それが〔保健所の人が〕来てからはもう駄目でした。近所の人も来なくなり、学校行ってもやっぱり、いじめられるほうが多かった。あの消毒だけは一生忘れないね。真っ白になりましたもん。父親が連れて行かれてからはもう、ムラにいるのが嫌、学校へ行くのも嫌、っていう日々が常に続いていました。母親が仕事がクビになる。生活が苦しくなる。そのつど母親は「死のう、死のう、死のう」って。母親も、小さいわたしを抱えてこれから先どうしたらいいかっていうことがアタマにあるからね。「死のう、死のう」ってどれだけ言われたかわからない。(黒坂愛衣『ハンセン病家族たちの物語』世織書房[2015年]より抜粋)
▶原告の声
「私たち家族は、みんな長い間、ハンセン病になった家族のことをまわりに隠して⽣きてきました。⾃分の⼤切な家族のことを、恥じなければならなかったり、いなかったものとしなければならなかったり、そのために、病気になったその⼤切な家族とのつながりを断(た)ったり、家族らしく⼼を通わせることができなかったりしました。私は、前から思っていたことだったので、すぐに裁判を決意しました。けれど、おどろいたのは、568⼈もの⼈がこの裁判を決意したことでした。みんなも、長い間苦しい思いを隠して⽣きてきたのだなあと感じました。」
「一般市民は、なぜこのように、患者当事者を差別するにとどまらず、家族まで差別したのか。それは、家族をハンセン病患者と同一視したことにあります。感染力が強いと信じ込まされた一般市民は、家族がいつでもハンセン病患者となりうると疑わなかったからです。このような被告国の、家族の被害を直視しない姿勢がある限り、私たちはこの法廷で、被害を訴え続けるほかありません。」(法廷での原告意見陳述より抜粋)